パワースポット!十一間流造「大井俣窪八幡神社」を紹介! | 全国パワースポット案内所
目次
武田家に篤く信仰された【大井俣窪八幡神社】とは
大井俣窪八幡神社(通称、窪八幡)は山梨市にある神社で、清和天皇の勅願により、貞観元年(859年)2月23日、宇佐神宮の八幡三神を音取川の中島の地へ勧請し、その地を大井俣といったことから神社の名称を大井俣大明神と称した。
以来一千年を越す歴史を有し、後代には武田氏をはじめとする甲斐源氏の崇敬を集めた伝統ある神社である。
その後、何度か水害で流され現在の窪の地へ遷座し窪八幡宮となった。
社殿は武田信玄の父、信虎によって建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。
また、鳥居は現存する木造鳥居のなかでは日本最古で本殿は、わが国最大の十一間流造である。
御由緒
創建当時の建物の規模は不明だが、当社(以下、窪八幡)の社殿は永正13年(1516年)の駿河の今川勢の侵攻により焼失。
現在の社殿や建造物は室町初期から末期にかけて信虎により再建されたものである。
窪八幡は八幡信仰の型を整えた山梨県では最古の八幡宮であり、甲斐源氏、特に本流武田家代々の氏神として崇敬された。
武田信虎、晴信は人生の折々に窪八幡に祈願をし、戦捷祈願、報賽の為、代々社壇造営修復等が行われ、その遺構は尊い室町文化の様を今に伝えている。
信虎、晴信は人生の折々に窪八幡に祈願をしており、信虎は天正八年(1539年)の自分の厄年に鳥居(現存)を寄進し、その際には晴信が信虎の代わりに窪八幡に社参に訪れている。
また、本殿の金箔は弘治三年(1557年)の第3回川中島合戦(前後5回のうちで最大の合戦)に際して晴信が押させたと伝わる。
武田氏滅亡に際しては、本殿裏の八本杉が倒れ、社地が鳴動したとの伝承がある。
御祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
足仲彦尊(仲哀天皇/たらしなかつひこのすめらみこと)
息長足姫尊(神功皇后/おきながたらしひめのみこと)
創建
貞観元年(859年)
ご利益
国家鎮護、延命長寿・安産、治水
見どころ
鐘楼
建立年代は不明であるが、神社に現存する天文22年(1553)頃の、「境内古図」に現在の位置に記されており、それ以前の建造であることを明らかにしている。
形式・技法から見て、明応9(1501年)年当社境内に再建の武内社と高良社に類似していることから同年代の建造と推定される。
この鐘楼は、腐朽がその極に達し、倒壊寸前にあったが、県有形文化財に指定され、昭和56年(1981年)解体復元工事が竣工した。
中世以来、明治維新までの神仏混淆時代の名残を今に伝える唯一の建築である。
現在、重要文化財の鐘楼は、全国で33棟を数えるが、屋根が同形式のものは一棟あるのみである。
木造狛犬
各台座裏面には、天文17年(1548年)権大僧都の法印良舜が本願となって源晴信(武田信玄)の武運長久と国土豊饒・社壇安穏を願って奉納されたことが記されている。
その後、永禄8年(1565年)に彩色し、同11年(1568年)玉眼を入れている。
檜材の寄席木造で、彫刻・彩色ともに薩州の林可の作である。
県指定有形文化財。
木製の鳥居
神社本紀の記録によると、天文4年(1535)、武田信虎によって42才の厄払祈願のため鳥居と石橋が建立されたとあり、現在の鳥居はこの時に再建されたものと考えられる。
親柱の前後に面取り角柱の控柱が立ち、親柱と控柱間は上下二本の笠木つき貫を通して連結され、いわゆる両部鳥居または四脚(しきゃく)鳥居と呼ぶ形式となる。
木材はそのほとんどに目の混んだ杉が使われており、親柱を連結する貫だけは節の多い末が使用されている。
中央部には額束(がくづか)を立て、額束正面に「大井俣神社」と文字金箔押しの木製神額が掲げられている。
アクセス
所在地
〒405-0041 山梨県山梨市北654
お問い合わせ先
TEL:0553‐23‐5390
交通機関
【公共交通機関のご利用】
JR中央本線 山梨市駅からバスで約10分、タクシーで約10分
【自動車のご利用】
中央自動車道・勝沼ICから約30分
ホームページ
http://kubohachiman.com/default.htm
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