パワースポット!武田一族が信仰した「武田八幡神社」を紹介!

パワースポット!武田一族が信仰した「武田八幡神社」を紹介!

出典:聖地ろまん紀行 https://romankikou.localinfo.jp/posts/4094640

武田一族の甲斐の国での発祥の地【武田八幡神社】とは

社伝によれば、822年(弘仁13年)に宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称したのが草創とされる。

一方で『甲斐国志』は当宮の別当寺である法善寺(南アルプス市)の記録に基づき、同じく822年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源としている。

なお、同書では日本武尊(やまとたけるのみこと)の子である武田王(たけだのきみ)が御殿を設けた事が武田の地名の由来であり、武田王が館の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源としている。

甲斐国には石和八幡宮(いさわはちまんぐう/笛吹市:ふえふきし)や窪八幡神社(山梨市)など武田氏により勧請された八幡社が分布しているが、『甲斐国社記・寺記』によれば、清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれた後、武田信義(武田氏初代当主)が当社で元服した縁から武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったといわれている。

武田神社と武田八幡神社

武田神社(甲府市)武田信玄ゆかりの神社で最も有名である。

武田家の館跡に建てられ、信玄公を御祭神としてお祀りしている。

武田神社は武田一族が滅亡した後に建てられた神社で、武田一族が信仰していた氏神は武田八幡神社である。

御祭神

誉田別命(ほむたわけのみこと)

足仲津彦命(あしなかつひこのみこと)

息長足姫命(おきながたらしひめ)

武田武大神(たけだたけのおおかみ)

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創建

(伝)弘仁13年(822年)

見どころ

御神木

本殿裏にある御神木は、本殿の裏に位置することから、様々な願いを受け止めていると云われて、武田信玄も日本統一に向けて様々な願いをかけていたと推察される。

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一石百観音石像

社前の右手にある、少し変わった岩は、「一石百観音石像」と呼ばれる。

高さ1.7メートルのほぼ三角形の板石に、頂点へ阿弥陀三尊の種子を印刻、その下部に西国・秩父・坂東の観音像百体を7段に配刻している。

もとは北方約500mの隆岩山玉保寺にあったもので宝永6年(1709年)に天下泰平・国土安全を願って建立されたが、廃寺になったため、明治17年(1884年)信徒たちによって武田八幡神社神宮寺跡地へ移され、さらに現在地に動座された。

昭和60年(1985年)に韮崎市指定文化財に指定されている。

出典:一石多尊仏巡り http://inorinomitinotabibit.la.coocan.jp/

為朝神社

境内の西に鎮座する為朝神社は、弓の名手として知られる鎮西八郎源為朝(ちんぜいはちろうみなもとのためとも/頼朝の叔父)を祀る。

元暦元年(1184年)、武田信義が社殿を建立し、為朝の画像と大長刀を納めて神霊を祀ったことに始まる。

文化13年(1816年)、源氏の直系の子孫である深沢文兵衛直房らが再興させた。

為朝神社は古来より疱瘡除けの神として庶民の信仰が篤く、遠くから参拝する人々も多かったというが、近代になり、種痘が実施されるとともに疱瘡除けの神としての時代は終わりを告げ、戦後再び人文地史美術研究のため参詣人の訪問が多いと云う。

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アクセス

所在地

〒407-0042 山梨県韮崎市神山町北宮地1185

お問い合わせ先

TEL:0551₋22‐1991(韮崎市観光協会)

交通機関

【公共交通機関のご利用】

JR中央本線 韮崎駅より韮崎市民バス円野線「武田八幡入口」にて下車、徒歩5分

【自動車のご利用】

中央自動車道 韮崎ICより約15分

ホームページ

https://www.takedahachimanguu.com/

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