パワースポット!国指定重要文化財「三木家住宅」と大嘗祭「麁服」

パワースポット!国指定重要文化財「三木家住宅」と大嘗祭「麁服」

https://www3.nhk.or.jp/news/special/japans-emperor6/articles/articles_ceremony_05.html

大嘗祭で使われる麻の織物「麁服」が調達される三木家住宅の「麻畑」

こちらは普段、紫陽花の苗木が植えられており、梅雨時期に見に行かれますと、綺麗な紫陽花畑となっております。

三木家住宅と隠れた枝垂れ桜

https://www.kotobus-express.jp/column/2019/04/2-6.html

梅雨は紫陽花ですが、春はしだれ桜がとても美しく。

古い歴史の重厚感がある三木家住宅枝垂れ桜の淡い粒たちの垂れ下がる姿がとてもマッチしています。

天皇陛下が阿波忌部三木家にこだわる理由とは?

https://www.awanavi.jp/spot/20393.html

最初、麁服の担当は阿波忌部族の誰かと言うので占いにより決められていました。

しかし鎌倉時代には、三木家の家筋である事が最終的に定められたのです。

大嘗祭を堺に、 「応仁の乱」が 1 4 6 7 年が始まり、1度は途絶えてしまいたした。

しかし、明治時代の後期に忌部三木家の存在が確認できて、大正天皇陛下の大嘗祭で見事に、『三木家による麁服』が復活したのです。

それまでは、阿波忌部の三木家はいっさい大嘗祭には関わって来ませんでした。

戦国の混乱により、当時の天皇陛下は大嘗祭は行えず細々としていましたが、江戸時代に入り、1687年徳川幕府5代将軍が大嘗祭を認める運びになりました。

実に、221年間も途絶えていた大嘗祭が復活となり、神祇官が徳島藩に、「忌部神社の確認」をするも、徳島藩からは「忌部神社は不明」と返答された。

忌部神社が不明ならば、三木家も絶えたであろう。との事で、神祇官が代役を務めるかたちで、113代東山天皇の麁服を作る事になったのです。

そして織物には必ず、『忌部所作代(忌部のように振る舞い代役をすること)』と書き添えるでありました。

因みに、後の中御門天皇は大嘗祭が認めれませんでした。

それからは、大嘗祭が認められましたが、やはり「忌部所作代」と必ず書くのです。

ここまでして、阿波忌部三木家にこだわる事がとても凄いです。

大正天皇大嘗祭で忌部三木家による麁服復活

https://ameblo.jp/kamisamano-ouchi/entry-12453314180.html

明治時代の後期にさしかかり、当時、徳島県に訪れていた皇太子殿下(後の大正天皇陛下)が行啓されておりました。

そこに、阿波忌部三木家は、残っています。との知らせを受け、さっそく、麁服の政策を依頼するために準備を進めるのでした。

三木家と皇室の間で、お互いに大嘗祭で麁服を調進された歴代天皇陛下の資料を照らし合わせ、見事に合致し、大正天皇陛下の大嘗祭より、まさに、約577年の時を越えて忌部三木家による麁服は復活するのでした。

麁服の復活もそうですが、明治天皇陛下に続き、当時、皇太子殿下だった大正天皇陛下まで、徳島県に行啓されるとは、よほど何か?あるのでしょうか?

徳島県って本当に何もない島国の田舎の県なんですよ。


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