パワースポット!豊國神社に隠された「御縣神社」について | 全国パワースポット案内所
目次
豊國神社に隠された「御縣神社 」とは
西歴:1598年/皇紀:2249年(慶長3年)
豊太閤(ほうたいこう)の異名を自ら掲げた豊臣秀吉はその年に没死。
その翌年に京都の東山に豪勢な豊国神社が完成。
彼は、後陽成天皇から『正一豊国大明神』の神号を賜り、立派な鎮魂祭を行われた。
更に秀吉は、生前から自身の大名たちに100体もの豊国大名明神(御神体が豊臣秀吉)木彫り像を配り、崇めるようにと広めました。
しかし、1615年の慶長20年にて、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。
豊臣秀吉の大名たちであった各藩の神社は取り壊され、または放置され狸狐の遊び場となる。
もちろん豊国大明神の木彫り像も例外無く全て?焼却処分された。
と、当時は誰しもがそう思っていました。
江戸時代でも堂々と鎮座していた徳島藩2社の豊国神社
ですがここで何ともなクレイジーな大名、藩がいました。
それが『阿波徳島藩・蜂須賀家』なのであります。
しかも當社は、この徳川幕府が謳歌する江戸時代に、明治まで堂々と建っていました。
慶長6年、蜂須賀家政は現在の徳島県小松島市中田(ちゅうでん)町(旧:村)に豊国神社を建てて、豊国大明神木像を祀ります。
更に慶長19年、『豊臣と徳川の最終決戦』に差しかかるその年。
阿波徳島藩は何を血迷ったのか?同地に、豊国神社を建てています。
そしてその神社は後の徳川幕府になってからも30年間建てられているのでした。
現在でも、その礎石が移転先の當社の境内に遺されています。
狸隠れの術で徳川幕府の目から逃れる豊国大明神の御神体
ここでも更に、阿波徳島幕府は通常ではあり得ない驚天動地の偉業を成し遂げています。
徳島藩の豊国大明神木像は、當社殿に何事も無く平然と奉り上げていました。
まったくもってあり得ない事です。
普通なら切腹ものか、蜂須賀家は歴史から末梢されても不思議ではない状況なのです。
それからと言うもの、御神体は近所の宝蔵寺(現・堀越寺)にある裏の祠に偽装して豊国大明神木像を祀ってそうです。
何とも間抜けな隠れ方。
まさに『狸隠れの術』です。
そうして、豊国神社は寛政6年/1794年に現在の場所に再建される(国鉄の関係で中田から中郷町へ移転される)わけですが、当然、御神体も残っており、今も社殿の奥で眠っています。
一度だけ、大阪博物館の館長とかが、写真に氏子に頼んで写真に収めたと言う記録があるだけです。
豊国神社に保護? 隠された御縣(みあがた)神社(寧ろこっちが本丸)
こちらの御縣神社、現在の豊国神社境内に大きな集団祠の中に更に、小さな祠を作って、和紙で『御縣神社』と書かれただけの質素な作りで奉られています。
御縣神社の『縣』とは、『県』の旧字体であり、古代朝廷直轄の御料地を示します。
當社の社名は近畿地方の奈良に多く鎮座しています。
何れも小松島のこじんまりした社殿に比べたら立派です。
問題は古代朝廷直轄である御縣神社が徳島県小松島市中郷町にあるのでしょうか?
延喜式によりますと、當社は勝浦群に属しており。
同じ郡に『多祁御奈刀弥神社』(こちらは、中方群)の記事で紹介しました。
『事代主神社(現:生夷神社)』『建島女祖命神社』の2社が鎮座している記録があります。
つまりこれは、大己貴神/大国主神が平定していた土地である事を意味しています。
江戸幕府からの極秘調査命令
1697年に、こんな面白い司令が江戸幕府より、徳島藩に下っています。
『阿波と淡路2州の古代天子乃葬場を探し報告せよ』と、あります。
ここで重要なのは、江戸幕府がわざわざ、阿波と淡路に的を絞っての調査対象を絞っている事です。
最も徳川軍と豊臣軍の闘いは、命令書発行前よりも、100年近く前の出来事ですが、その頃から既に徳川は何かを掴んでいたのかもしれません。
パワースポット!豊國神社に隠された「御縣神社」についてまとめ
- 『阿波徳島藩は、豊臣軍最後の決戦間近で、2社目の豊国神社を建設する』
- 『100体もの豊国大明神木像は、徳島藩の御神体を遺して全て処分される』
- 『江戸幕府の監査から狸隠れの術で難を逃れる豊国大明神木像』
- 『御縣神社を隠すために、江戸幕府は黙殺した?』
- 『御縣神社とは、古代朝廷直轄の土地を示している』
- 『江戸幕府より、徳島藩に古代天子葬場の命令書発行される』
以上になります。
ますます広がる阿波古社の秘密。
謎はまだまだ付きません。
アクセス
所在地
徳島県小松島市中郷町豊ノ本 4
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