日本武尊を祀る山岳信仰の霊場、武尊山とは・・・
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目次
武尊神社御祭神 日本武尊の名を冠する【武尊山(ほたかやま)】とは
群馬県の北部にそびえる武尊山は、沖武尊(おきほたか)を主峰とする十ほどの峰と広い裾野を持つ独立火山である。
武尊山には北アルプスの穂高連峰と同じ穂高見命(ほたかみのみこと)が祀られており、『保鷹山』や『穂高山』と記されていた時代があった。
武尊山は江戸時代の寛政年間(1789~1801年)に普寛(ふかん)行者によって開山された。
江戸八丁掘の行者たちが山岳修験道の登拝道を開き、山岳信仰の霊場となっていった。
普寛行者は木曽の御嶽山(おんたけさん)や、越後の八海山(はっかいさん)を開いた人物である。
50年(嘉永3年)に、前武尊に日本武尊の像が建立された。
北アルプスの穂高岳と区別するために、群馬県の旧国名(上野国)の別称である「上州(じょうしゅう)」を冠して“上州武尊山”とも呼ばれ、「日本百名山」にも数えられている。
御祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)
創建
865年(貞観7年)
御由緒
865年(貞観7年)の頃より保宝鷹(ほほうたか)神社と称されるようになった。
上野(こうずけ)神社名帖には、従一位社と被叙(ひじょ)せらる、とあり、また大日本史神衹帖(しんしちょう)に「宝高(ほうたか)神社は利根郡に在り」とあるは本社なりとある。
古くより招福開運の神社として各地より参拝人多く、真にあらたかなる社である。
~社殿前 立て看板より~
保宝鷹を武尊と表記するようになったのは、真田伊賀守の侍医鈴木法橋が日本書紀の日本武尊の武徳に感じ入り、『武尊』と書いてホタカと読ませ、1661年(寛文元年)に下沼田の社に『武尊宮』と額書したことから始まる。
以後、ホタカの神は日本武尊であり、武尊と書いてホタカと発音することになったとする説や、日本武尊が東方征伐時に立ち寄った故事から、江戸時代に『武尊』の漢字を当てたとする説もある。
明治以降、山麓に点在する約30の神社の名が「武尊」(ほたか)表記となった。
武尊神社の御神託
招福開運
武尊神社周辺の見所
《宝川温泉》
テルマエロマエⅡのロケ地にもなった宝川温泉は、武尊山の西に位置する。
外国人客が4人に1人とも云われる日本有数の混浴大露天風呂で人気の温泉である。
また、熊の入浴する露天風呂としても有名(現在の条例では熊の入浴は禁止)。
1950年(昭和25年)頃、親を亡くし、この宿で育てられた2頭の小熊たちがお客さんと一緒に露天風呂に入るというので、話題になった。
最大200畳の子宝の湯を筆頭に、摩訶の湯100畳、摩耶の湯100畳、般若の湯50畳、併せて畳を450枚も敷いた面積がある露天風呂。
1963年(昭和38年)に宝川温泉・汪泉閣が発行した「藤原風土記」には、
「日本武尊が奥州へ東征した際、武尊山の西側に流れる川を遡上し、途中の滝で21日間の水垢離(みずごり)をした後、武尊山へ登った。しかし、日本武尊は登山後、疲労と病気で窮地に陥ったが、白鷹に導かれて温泉を発見し、湯治により全快した。」
と記され、それが宝川温泉であり、古くは「白鷹の湯」と呼ばれていた。
所在地
群馬県利根郡水上町藤原1899
アクセス
武尊神社から10.7km車で34分
http://www.takaragawa.com/
《裏見の滝》
日本武尊が東征の折、
「同伴の姫が産気づいたが母子ともに亡くなり、この滝で不浄を清めその冥福を祈った」
あるいは
「水乞いをした」、「水垢離をした」
という伝説の名瀑。
宝来の滝(ほうらいのたき)とも呼ばれる50mの滝で豪快な水脈が滝壷へ落ちる様は圧巻。
落石の恐れがあるため、現在は裏からは見られないが、観瀑台からの眺めも素晴らしい。
滝壺近くには、武尊神社奥宮のお社がある。
所在地
〒379-1721
群馬県利根郡みなかみ町藤原 武尊神社から徒歩約1分
http://www.enjoy-minakami.jp/place.php?itemid=518&catid=33
【武尊神社】へのアクセス
所在地
〒379-1721
群馬県利根郡みなかみ町藤原918番地
武尊山の登山口(藤原口コース入口、裏見の滝駐車場から200mほど林道を奥に進む)
交通機関
JR上越新幹線「上毛高原駅」から車で約60分、JR上越線「上毛駅」から車で約45分
ホームページ
なし
マップ
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