梅や桜の名所としても有名!出世明神と呼ばれる【高麗神社】とは
出典:カワゴエ・マス・メディア http://koedo.info/160603komagun1300/
目次
出世明神と呼ばれる【高麗神社】とは
紀元前1世紀~7世紀後半まで朝鮮半島の北部を中心に栄えた高句麗国の王族・高麗王若光を祀る神社。
大正から昭和にかけて活躍した政治家、濱口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎などが参拝して、その後、総理大臣になったことから「出世明神」、「出世・開運の神」として知られるほか、梅や桜の名所としても有名。
御祭神
高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
創建
不詳(奈良時代頃?)
御由緒
高麗王若光は、天智5年(666年)高句麗よりの使者(戦いの援軍をお願いするため)として、日本へやって来たが、天智7年(668年)中国「唐」と「新羅」の連合軍により高句麗が滅ぼされたため帰国を断念。
朝廷の命を受け、亡命してきた高麗人と共に、鍛冶、建築、工芸など大陸の進んだ技術や文化を伝えた。
若光は高徳の人で『続日本書紀』大宝3年(703年)4月4日条に、若光が文武(もんむ)天皇から従五位下の位と外国の王族の子孫を意味する姓(かばね)である王(こきし)の賜与をされたという記述があることが、高句麗王族の出と云われている由縁であるが生没年及び出自ともに不詳。
霊亀(れいき)2年(716年)、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7国に住む1799人の高麗人が移住して高麗郡(こまのこおり)が設置され、初代の郡長として若光が赴任し、未開の原野であった高麗郡を開拓した。
没後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀り、これが当社の創建と云われる。
晩年、白髭をはやしていたので「白髭様」と呼ばれていたことから、高麗神社は別名「白鬚神社」あるいは「白鬚明神」とも称されていた。
高麗郡内に鎮座する白鬚神社は、高麗神社の分社ともいわれている。
代々、宮司は若光の子孫が務め、現在の宮司で60代目という。
高麗神社の御神徳
子孫繁栄、家内安全、出世・開運、延命長寿、病気平癒など
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おすすめスポット
将軍標(しょうぐんひょう・チャングンピョ/장군표)
日本では珍しい魔除けの将軍標。
当社の第1駐車場に建つ、トーテムポールのような、顔のついた2本の柱。
『チャングンピョ(将軍標)』と呼ばれており、朝鮮半島の古い風習で村の入口に建てた境界標(道祖神)で魔除けに使っていたもの。
胴に記された『天下』『地下』の文字は目に見える世界から目に見えない世界まで、すべてを守る事をあらわし、村の入り口で魔を威嚇し、その侵入を防ぐことから、人々は魔よけ、災害防除、家内安全を祈願してきた。
日本の韓国料理店の入り口などでもよく見受けられる。
当社のチャングンピョは2005年に日韓国交正常化40周年を記念し、在日大韓民国民団中央本部により奉納されたものである。
西武池袋線高麗駅、高麗山聖天院勝楽寺にも建てられている。
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高麗山聖天院勝楽寺(こまさんしょうでんいんしょうらくじ)
日高市新堀に建つ高麗氏の菩提寺。
寺伝によれば天平勝宝3年(751年)、高麗若光に従っていた僧・勝楽が、若光の冥福を祈るためにその念持仏の聖天歓喜仏を本尊とする寺院の建立を出願、弟子・聖雲(若光の第三子)らが創建した真言宗智山派の古刹。
高麗王若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としたと伝えられる。
高麗王若光のお墓「高麗王廟」は、山門をくぐらず、右手側に鎮座する。
小さなお堂の中に、砂岩を積み上げた朝鮮様式の高さ230cmの多重塔がある。
高麗神社から聖天院勝楽寺まで徒歩約5分。
出典:とまのす http://tomanosu.hatenablog.com/entry/2016/07/06/221656
【滝尾高徳水神社】へのアクセス
所在地
〒350-1243 埼玉県日高市新堀833
お問い合わせ先
TEL:042-989-1403(社務所)
交通機関
【公共交通機関のご利用】
「JR高麗川駅(こまがわえき)」(JR川越線・JR八高線)下車、徒歩20分
【自動車のご利用】
関越道「練馬IC」→ <鶴ヶ島JCT>圏央道 →「狭山・日高IC
圏央道「狭山・日高IC」から約20分
ホームページ
http://www.komajinja.or.jp/
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